日本語の懐 協力/大修館書店
連載全12回 第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回
「適当」な居場所探し
突然、「会社を辞めたい」と言い出したウスイ主任。永徳百貨店インテリア事業部は、一瞬にして凍りついた。普段は冷静な課長も、混乱のあげく、おやじギャグを飛ばす始末。さあ、いよいよクライマックス。ウスイの真意は、どこに?
登場人物
渡辺課長 渡辺課長
永徳百貨店・インテリア事業部勤務。過去に日本語に関して厳しい教育を受けて以来、普段の言葉遣いや接客での日本語に目を光らしている。
ウスイ主任 ウスイ主任
31歳の若さで主任に抜擢。売り場を見ながら仕入れもかじる。日本語教育は新人研修で受けたもののいまいち自信がない。
ねねちゃん ねねちゃん
新入社員一年生。接客ではマニュアル通りの対応を見せるが、普段はリラックスしすぎている言葉遣いで先輩社員の頭を悩ませている。
ウスイ 「…課長! 私、やはり…」
課長 「どうしたんだい、ウスイクン?」
ウスイ 「私、来月いっぱいで、会社を辞めさせていただきたいと…」
―一瞬、凍りついた永徳百貨店インテリア事業部。課長の表情が見る見る険しくなっていく。課長がポツリとつぶやいた。
課長 「そんな冗談いわれると、おじさん、鳥肌立っちゃうぞお。」
ウスイ 「課長、私、このところずっと考えたんですけれど…。今、忙しくて、自分の時間がとれなくて…」
課長 「……」
ウスイ 「もっと海外を旅したり、語学を習ったり、自分の勉強をしたいんです。新しい知識を身につけないと、仕事も適当になってしまうし…」
課長 「…。ウスイクンの仕事ぶりはまさに適当だ」
ウスイ 「いえ、そうじゃなく適当にやっているなーって自覚しているんです」
課長 「君の商品知識はまさに適当だし、部下の管理も適当だと思うよ」
―そのやり取りをそばで見ていたムラサメ。ねねちゃんの耳元にそっと囁いた。
ムラサメ ねねさん、課長も主任も『適当』『適当』って。あのやり取り、なんなんでしょう
ねね 適当には3つの意味があるの。課長のは、『よく適合してる』っていう意味で、いいかえるなら『適切』ってこと。ウスイせんぱいのは、『いい加減』っていう意味。課長はいい意味で使ってて、せんぱいは悪い意味で使ってるのよ。なんか言葉遊びしてるみたいだよね」
ムラサメ 「高度な会話ですね〜。でも、ねねさんも言葉の神様みたいです!」
ねね 「あの二人も、適当なとこで話を切り上げて、会議室とかで話せばいいのにね」
ムラサメ 「今の『適当』は…?」
ねね 分量とか程度がほどよいときに使うの。『適度』っていう意味かな
ムラサメ 「さすが!」
課長 「とにかく、だ。この話は今、この場で話すのは適当ではないな。ウスイくん、場所を移そう」
―机の上を整理し、荷物をまとめ、外へ出て行く課長とウスイ。見送るねねの表情は不安げだ。
ムラサメ 「ウスイさん、辞めちゃうのかな」
ねね 「課長、うまく説得してくれないかなあ」
ムラサメ 「意外に頼りなそうですからね、課長」
ねね それを言うなら『頼りなさそう』。名詞に形容詞の『ない』がついた言葉に『〜そうだ』とか『〜すぎる』がついた場合は『〜なさそう』『〜なすぎる』ってなるのよ
ムラサメ 「えー、ねねさん、何でそんなこと知ってるんですか。かっこよさすぎ!」
ねね その場合は『かっこよすぎ!』。<ら抜き言葉>と<さ抜き言葉><さ入れ言葉>については、課長、めちゃくちゃうるさいから、コツコツ勉強したのよ。。」
ムラサメ 「私、本を読まなさすぎかも。あ、今の合ってました?」
ねね 残念! 『読まなすぎる』が普通の使い方。これ、『ない』に『すぎる』がついてるんだけど、『読まない』の『ない』は形容詞じゃなくて、助動詞なの
ムラサメ 「いやあ、マニアックですねぇ!」
ねね 「『読まなそうだ』も正解。でも、作家によっては『読まなさそうだ』って使う人もいるから、難しいよね、言葉って。私のPCだと『よまなそうだ』って打って変換すると「世間なそうだ」って変換されて、『読まなさそうだ』を変換すると『読まなさそうだ』ってちゃんと変わる。試しにムラサメさん、『しらなそう』と『しらなさそう』って変換してみて。ほら、変だよねえ」
※ATOK 2005 for Windowsは「読まなさそう」「読まなそう」ともに変換します。
ムラサメ 「面白いです!」
ねね 「なに言ってるの。今はウスイせんぱいがどうなるかってときじゃない!」
ムラサメ 「危なそうですかね」
ねね 「あ、今の正解!『危なさそう』は一般的じゃないんだよね」
―そこへ戻ってきた課長。しかめっ面である。
ムラサメ 「せつなそうですね、課長」
ねね 「せつなさそうだね」
ムラサメ 「あれ、やっぱ、間違ってました?」
ねね 「ううん。この場合はどっちもあり、って言えるかも。一般には『さ』抜きなんだけど、慣用的には『さ』入れも認められるって、参考書に書いてあったから。『あどけない』とか『せわしない』『はしたない』とかも一緒なんだって
課長 「あー、ねねくん」
ねね 「課長、ウスイせんぱい…」
課長 「ああ、意志は堅そうだな。まあ、優秀だし、頑張っているし、本来ならどんなことをしても引き止めるべきだとは思うがね…。あえて、笑顔で送り出すのもありかもな。私が仕事漬けにしてしまったのが悪かったのかもしれないが…」
ねね 「そんなことないですよ〜。きっと、何日かしたら心変わりしますって〜」
―3月末、ある国の街頭に、ウスイの姿があった。「とにかく、たまっている有休を消化して、その間に将来のことをじっくり考えてみろ。結論はそのあとだ」
――課長のその言葉に従って、ウスイは大学卒業以来、初めて海外旅行にやってきた。この街に滞在して数日。街を歩きながら、つい目が行くのは、その国ならではのスタイルを演出しているショップのインテリア、食器や什器…。それにショップのスタッフとお客さんの楽しげなやり取り。「やっぱり、私、インテリアの仕事が大好きなんだ…。それにお客様が喜んでくれることも…」。今すぐ会社に行って仕事したい!
――心からそう思えるのは、彼女にとって本当に久しぶりのことだった。
企画協力/鳥飼浩二(明鏡国語辞典編集委員)
参考サイト/『明鏡日本語なんでも質問箱』(大修館書店)
文責/オフィス・ワイズ 屋敷直子
※「日本語の懐」に登場する百貨店名、人物名はすべて架空で、実際のものとは一切関係ございません。
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update:2005.10.21