日本語の懐 協力/大修館書店
連載全12回 第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回
ウスイの全然大丈夫じゃない体調
長雨が続いて気が滅入るこのごろ。ウスイは一度ひいた風邪がなかなか治らず、日々調子が悪そうである。
登場人物
渡辺課長 渡辺課長
永徳百貨店・インテリア事業部勤務。過去に日本語に関して厳しい教育を受けて以来、普段の言葉遣いや接客での日本語に目を光らしている。
ウスイ主任 ウスイ主任
31歳の若さで主任に抜擢。売り場を見ながら仕入れもかじる。日本語教育は新人研修で受けたもののいまいち自信がない。
ねねちゃん ねねちゃん
新入社員一年生。接客ではマニュアル通りの対応を見せるが、普段はリラックスしすぎている言葉遣いで先輩社員の頭を悩ませている。
ねね 「おはようございマス、ウスイ先輩。なんだか今日もあんまり顔色よくないデスよ。大丈夫ですか?」
ウスイ 「おはよう。調子は…よくないけど…まあ大丈夫」
ねね 「先輩、その大丈夫っていうの、よくないデスよ。『負け犬』がよく使う言葉デス。調子が悪かったら、何日でも休めばいいんデス。私がいるから仕事のことは、だいじょーぶです!」
課長 「ウスイくんどうだ調子は。今日は午前中の打ち合わせが終われば、ハヤ※の帰宅時間よりも前に帰っていいぞ」
ウスイ 「いえ、なんやかやとやることが……体調は全然大丈夫です」

―午前中の打ち合わせの後、社食で一緒にランチをとる課長とねねちゃん。今日のメニューは290円の日替わり定食。
課長 「ウスイくんは、全然大丈夫じゃなさそうなんだがな」
ねね 「日本語にウルサイ課長が『全然大丈夫』なんて言っていいんですか」
課長 (ねねちゃんに指摘されるとは…と思いながら)「本来『全然』というのは、肯定にも否定にも使われるものだったのだよ。かの文豪・夏目漱石でも『この社会が今全然暗黒に見えた』と使っているくらいだ」
ねね 「へえ〜それって『この社会が今、チョー暗黒に見えた』っていう意味ですよね? 『全然〜ない』という否定の意味だけじゃなく、『すごく』という強調の意味もあるんデスね」
課長 「強調というよりは、全面的にという意味だね。さらに、体調が悪いとか仕事が大変というネガティブなことを打ち消す『全然大丈夫』や『全然OK』とか、何かと比べて『〜の方が全然好き』という使い方は、だいぶ増えてきているな。単に強調の意味で使う『全然うれしい』などは、まだ日本語として違和感があるように思うが」
ねね 「『全然』が『超』に置き換えられるか、置き換えられないかの違いデスね」
課長 「(首をひねりながら)まあだいたいそうだということに…。しかし、ねねくんも、だいぶ日本語にこだわりが出てきたようだな」
―お茶を飲みながら、我が部下の成長を喜ばしく思う課長。
ねね 「そうデスよ。私だって少しは成長します。ところで課長、『大丈夫』とか『結構』というのも、どっちにもとれる言葉ですね。たとえば『こちら、お包みしましょうか』とお客さまに聞いて『大丈夫です』とか『結構です』と言われると、包んでほしいのか包まなくていいのか、迷うんですけど」
課長 「なるほど。『結構』というのは元来『組み立てて見事なものを作り上げる』という意味だったから、『結構な(=立派な)お住まいですね』『給料が高いのは結構(=満足できる)だ』というような使い方をするようになったんだな」
ねね 「『すごくいい!』とか『全然OK』を上品にした感じデスね?」
課長 (多少首をひねりながら)「…そうともいう。それが転じて満足も十分すぎるといらなくなる意味になって、『もう結構です』という丁寧な断りの表現になったんだ。過ぎたるは及ばざるがごとし、だな」
ねね 「日本語らしい曖昧さデスね〜。まち子にも、アヤしい勧誘の電話がかかってきたときに、やんわり断ろうとして『結構です』と言ってはいけないって言われました」
課長 「まち子?」
ねね 「母の名前です。まち子も風邪が治らなくて、ずっと寝てるんですよね〜」
課長 「…それはお大事に」

―午後3時。さすがのウスイもそろそろ限界で、早退しようと課長のところへ。
ウスイ 「課長。今日はもう帰らせてください…」
課長 「うむ。よく寝て休みたまえ。明日は突発※でも構わないぞ。ところで体調が悪いときになんだが、年明けの催事を任せたいと思っているんだが」
ウスイ 「それは…私では役不足ではないですか」
課長 「ウスイくん、それは役不足の使い方が違うぞ。それでは『そんな端役ではやる気になれない』という意味だ
ウスイ 「いえ…そんなつもりでは…」
課長 「わかってる。この場合は力不足が正しい。でも君は力不足ではないから、がんばりたまえ。とにかく今日はもう休むこと」
ウスイ 「はい。そうします。お先に失礼します」
―端で見ながら、何も今のウスイをつかまえて日本語の講義をすることはないと思うねねであった。
※ハヤ=早いシフトのこと。 突発=休みを表す用語。
企画協力/鳥飼浩二(明鏡国語辞典編集委員)
参考サイト/『明鏡日本語なんでも質問箱』(大修館書店)
文責/オフィス・ワイズ 屋敷直子
※「日本語の懐」に登場する百貨店名、人物名はすべて架空で、実際のものとは一切関係ございません。
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update:2005.10.21